思想革命

本や漫画、自身の体験なんかを基にした、ちょっとした知識や思想を書いています。

睡眠サイクルの結論【経験談】

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こんにちは、一歩です。

皆さんは、自身の健康にはどの程度、気を使っているでしょうか?

 

健康を維持するのは、意外と大変。

日頃から気を使っていないと、体の調子のバランスはすぐに崩れてしまいます。

 

特に睡眠は、コントロールするのが難しい。

眠っている最中は、何かを意識することはできないですからね。

 

僕は、夜更かし体質で、寝る時間が遅いので、どうしても睡眠不足になりがちでした。

そこで、睡眠サイクルの改善を試みたのですが、これがなかなか難しい。

一度、改善したと思っても、気を抜くとすぐに夜更かし生活に戻ってしまいます。

 

自分にあう睡眠時間と時間帯をひたすら探し求めて、とにかく試行錯誤してきました。

そこで今日は、僕自身の体験を元に、睡眠サイクルに関する僕なりの結論を話していきたいと思います。

 

 

最適な睡眠を求める旅

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睡眠は動物の基本的な機能で、その種によって睡眠時間や時間帯というのがおおよそ決まっています。

人間もその例外ではなく、夜10時以降に就寝し、7~8時間くらい眠ると体に良いとされています。

 

しかし、そのような健康的な睡眠サイクルを保つのは、とても大変なことです。

何も考えなくても、自然と健康的な睡眠サイクルを保てる人もいるかもしれませんが、僕はできませんでした。

 

僕の場合、夜は読書やネットサーフィンなどの作業に寝中してしまうことが多く、いつも気がつくと夜更かしをしてしまっているのです。

 しかし、それだと睡眠不足になってしまって、昼間の注意力が散漫になってしまいますし、健康にもよくありません。

 

そこで、僕は睡眠サイクルの改善を目指して生活習慣を見直すことにしました。

 自分に最も合った睡眠サイクルを探す旅に出たのです。

 

 

早起きを試してみる

 自身の睡眠を見直すにあたって、「とりあえず」と試みたもの、それは「早起き」です。

一時的に睡眠不足になってしまっても、早起きすることで夜には早く眠たくなり、結果的に早寝早起きの睡眠サイクルに変えることができるだろうと思ったのです。

 

しかし、甘い考えでした。

早起きすることは、できます。

ただ問題は、早起きしたその日でも、必ずしも早く寝付けるわけではないことです。

やはり、今までずっと夜更かし生活だったためか、気まぐれで早起きしても、早く寝付ける訳ではないんですね。

 

私の場合、とりあえず2週間程度続けてみましたが、睡眠不足になるばかりで、

一向に早寝早起きができるようにはなりませんでした。

 

睡眠サイクルを改善しようと試みたものの、いきなり無駄なことをして、失敗してしまったわけです。

 

 

調べ物

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行き当たりばったりで行動して失敗してしまった私は、今度は反省を生かして、きちんと睡眠について調べることにしました。

そして、調べ物をして浮かび上がってきたのはこの5つ。

 

  1. ブルーライト
  2. カフェイン
  3. 平日と休日のギャップ
  4. 運動
  5. クロノタイプ

 

そして、一つずる実際に自身で試してみることにしました。

では、試した結果を一つずつ見ていきましょう。

 

1.ブルーライト

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 睡眠の障害になるものとして代表的なものはやはりブルーライトでしょう。

僕の場合は、眠る前の自由な時間はほとんど、PCやタブレット、スマートフォンを使っていたので、それが障害になっていたのかもしれません。

 また、ブルーライトは、PCやスマートフォンの画面だけではなく、LED照明にも含まれているようです。

なので、スマートフォンなどを使っていなくても、眠る前にあまり明るすぎる空間にいると、睡眠に影響が出てしまうかもしれません。

 

そこで、僕が試したのは、眠りに入りたい時刻の1時間前から部屋を薄暗くして読書をするということです。

眠る前の読書は以前から結構していたのですが、タブレットで電子書籍を読んでしまっていたり、部屋を完全に明るくした状態で本を読んでしまっていたので、ブルーライトを浴びまくりの状態でした。

そこから、読む本を紙の本にして、部屋の明るさを本を読む必要最低限にするように、改善しました。

 

 

これを2週間ほど続けてみた結果.....

睡眠の質が上がった!!!

 気がする…。

朝起きるときに眠気が覚めなかったり、昼間に眠たくなくなるといったことが、格段に減りました。

なので、睡眠に対する良い影響はあったかなと思います。

 

 ただ、早く眠れるようになるというような、睡眠サイクルそのものに対する変化はなかったですね。

睡眠時間帯を早めるためには他のアプローチが必要なようです。

 

2.カフェイン

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続いて、注意したのがカフェインです。

カフェインは興奮作用があるので、眠る前に取ってしまうと寝付けなくなってしまったり、睡眠が浅くなったりしてしまいます。

 心地よく眠るための対策としてよく言われているのは、眠る時刻の4時間前になったらカフェインを取らないようにするというもの。

 

僕の場合は、眠気覚ましとしてコーヒーをよく飲んでいたので、コーヒーを飲む時刻に注意し始めました。

 

いろいろ試行錯誤した結果、僕の場合は眠る時刻の6時間前くらいまでなら、コーヒーやエナジードリンクなどを飲んでも睡眠に支障がないようです。

ただ、この6時間当言う数字は、カフェインの摂取量や体質にもよるでしょうから、各々自分に合った時間帯を見つけるのがよさそうです。

 

僕がカフェインに注意した結果として、カフェインを摂取する時刻に気を遣うことによって、

早くに眠たくなって夜更かしすることが減りました。

 眠る瞬間もより快適に心地よく眠りに入れているという感覚があります。

 

僕の場合はカフェインが睡眠サイクルを狂わせている一つの大きな要因だったのでしょう。

 

3.平日と休日のギャップ

これは、「ブルーライト」や「カフェイン」などの物理的なアプローチとは違い、生活習慣の意識の話です。

平日と休日に、起床時刻、就寝時刻の差があるのは人の体内時計を狂わせる大きな原因の一つです。

 

僕の場合、休日はどうしても起床時間が遅くなりがちでした。

そして、その分夜更かしをするので、平日に睡眠不足の状態で起床しなければならなくなり、その睡眠不足を休日に多く眠ることで解消しようとするという悪循環。

その悪循環から抜け出さなければいけません。

 

悪循環から抜け出す方法として僕が見出したのが「4.運動」です。

 

4.運動

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 どうしても睡眠サイクルの悪循環から抜け出せない人に僕がおすすめするのが、「運動」です。

運動不足の人は、生活習慣に「運動」を取り入れると、睡眠にも確実に良い効果があると思います。

僕の場合は主に筋トレとランニングを行っていますが、スポーツやヨガなどでも良いと思います。

とくかく短時間でも集中して運動することで、疲れていやでも眠たくなりますからね。

1日1時間程度の運動をすることをお勧めします。

 

また、気を付けなければならないのが、「運動する時間帯」です。

僕の場合は眠る6時間前くらいに運動すると、自然に眠りに入ることができます。

 

運動というのは交感神経を刺激しますので、眠る直前に運動をしてしまうと興奮して、むしろ眠れなくなってしまうと思います。

なので、運動をするのは眠る5時間以上前をお勧めします。

 

また、時間がある方は朝の運動でも良いかもしれません。

自分に合った運動の時間帯を探してみてください。

 

5.クロノタイプ

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「クロノタイプ」とは、一人ひとり少しずつ異なる睡眠をとるタイミングの傾向のことで、50%程度遺伝子に決定されています。

つまり、生まれつき体内時計の特徴がある程度決まっているということです。

 

この事実の知ったとき、僕はとても安心しました。

僕は昔から夜型で朝起きるのが非常に苦手だったのすが、それを直さなければいけない癖のようなものだと思っていました。

そして、周りの人は当たり前にやっていることを自分だけできなくて、焦りを感じていたんですね。

 でも、体内時計が遺伝的な部分が大きいと知って、「生まれつきならしょうがないな」というふうに割り切ることができました。

そして、自分の体質を受け入れて、前向きに改善していこうと思えるようになったのです。

 

遺伝や生まれつきの話をすると元も子もない気はしますが、僕は「クロノタイプ」について知れたことでむしろプラスになったと思います。

 

まとめ

僕が睡眠について調べた結果と、僕自身の経験を元に、睡眠サイクルの改善方法を説明しました。

皆さんの生活習慣の改善のために少しでも参考になれば幸いです。

 

 

人は死ぬ話

 

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こんにちは、一歩です。

今日は、「人は死ぬ」話です。

当たり前で誰もが知っているけれど、平和に生活していると忘れがちなこの事実。

必要以上に「死」を意識して、怯える必要はないけれど、たまには「死」について思い出して、「命」について考えておきたい。

「死」について、僕はそう思っています。

 

  • 人は死ぬぞ
  • ルフィ(ワンピース 第104話より)

 

 

 

死について考える

 

人は死にます。

“いつか”必ず死にます。

そして、その“いつか”は本当にいつ来るのかわからない。

もうすぐかもしれないし、何十年も先かもしれない。

この「根本的な事実」は、非常に重要で、「人の命」について考えるときに意識しておくべきことです。

この事実を忘れてしまうと、 人の生死について考えるときに、ことの本質を見失ってしまうのではないかと思います。

 

  

続く凶悪事件と、そこからわかること

 

最近は、凶悪事件が連続して起こっていますよね。

「川崎市登戸通り魔事件」や最近だと、「京都アニメーション放火事件」などですね。

このような事件が連続して心が痛みますが、同時に一つの事実を思い出させてくれます。

それは、「人が悪意をもって行動しようとしたら、それは止められない」ということです。

もちろん、効果的な犯罪抑止の方法や防犯対策はあるとは思いますが、僕が言いたいのは、「行動の自由(自由権)が保障されている限り、人が何らかのモチベーションを持って行動することは、止められない。」ということです。

たとえ、それが悪意というモチベーションであろうと。

なので、事件直後は話題になっても、根本的な原因がわからないので(または、わかっていても対策することができないので)、具体的な抑止方法や犯罪対策まで話が進まないのです。

さらに、仮に原因が100%わかったとしても、すべてを抑止できるわけではありません。反社会的な人格を持った人や、社会の常識を逸脱する人は一定数で必ず現われます。

この話題を突き詰めていくと、社会システムの欠陥や限界という話になってくるのだと思います。

 

 

社会システムを構築する要素

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社会システムを構築する要素を、「人の命」という観点から考えると、2つの要素に分かれると思います。

 

  1. 人が死なないように
  2. 人が人らしく生きられるように

 

この2つは同じことを言っているようで、実は相反する部分も多いのではないかと思っています。

例えば、先ほどの犯罪抑止に関連することでは、「監視社会」という言葉で、よく議論の的になります。

"1.人が死なないように" という観点から言うと、防犯カメラやスマートフォンで「人々を監視する」ことは効果的ですが、"2.人が人らしく生きられるように" に重点を置くと、プライバシーの侵害の問題として取り上げられることがあります。

特に、「自由」と「犯罪抑止」は相反する事象なのではないでしょうか。

 

 

社会におけるイレギュラーな犯罪者の存在

 

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いつの時代にも、普通の人の感覚では考えられないような、凶悪な犯罪を犯す犯罪者というのは、一定数で出現します。

これらの犯罪者が出現する要因には、生まれ持った特性や教育環境、周囲との人間関係など様々な要素が重なって、複合的に作用していると考えられます。

そして、人というのは、人間関係や社会性において、さまざまなレイヤー(層)に分かれて成り立っており、そのすべてを管理、統制することは不可能です。

なので、極端に言うと「全ての要素の悪い部分だけが重なった人」というのが一定の確率で出現してしまうのです。

 

 

まとめ

 

もし、悪意を持って行動する人がいたとしても、現代の社会では、それを確実に抑止する方法はありません。

また、 通常の感覚では考えられないような凶悪な犯罪を犯す犯罪者というのも、一定数は必ず出現してしまいます。

 

これらの事実を踏まえたうえで、自分の命について僕が心に決めていることがあります。

それは、「自分の命が危険にされされたら、自らの命を守るために全力で抵抗する」ということです。

これは、なにも犯罪に巻き込まれた場合だけではなく、病気にかかった場合などもそうです。

これは、とても当たり前のことなのですが、結構忘れている人が多いとも思います。

普段、平和な生活を送っていて、「安全」について何も考えずに済むことが多くても、これだけは忘れないでいたいものです。

 

来年には日本女性の平均年齢が50歳になるってマ?

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こんにちは、一歩です。

突然ですが、日本の社会が「高齢化」していることは知っていますか?

まあ、聞いたことがないってことはないですよね。小学校とかでも習いますし…。

ただ、「情報」、「データ」として知っていても、「実感」として理解しているのとは違います。

皆さんは高齢化の実感って持っていますか?

正直、僕は「全くない」レベルでした(笑)。

というか、僕の世代(20代前半)とか、それより下の世代って高齢化の実感ってほとんどないと思うんですよね。

20年、30年前の「昔」と比べて高齢者がこれだけ増えていますよ、って言われても、そもそもその「昔」を知らないわけですし、「高齢化」自体も小さい頃からずっと言われ続けていますからね(少子化とセットで)。

いわば、僕たちの世代にとっては「高齢化」だの「少子化」だの叫ばれて続けていることがもうデフォルトなんですよ。

それに、普段の生活で高齢者と関わることもほとんどないですしね。仕事をしていても、直属の上司とかだとせいぜい40代、50代でしょうからね。

そんなわけで、これまでの僕にとって日本の高齢化問題は、

「へぇー、なんか大変そうだけどずっと言われていることだし、解決は無理ゲーなんだろうなー」

くらいの感じだったわけです。

 

 

日本女性の平均年齢が50歳という衝撃の事実

 

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そんな日本の高齢化に無関心だった僕も、友人との会話をきっかけに、衝撃の事実を知ることになります。

それは、僕が友人と「年金問題」や「老後2000万問題」など、話題になっている社会問題についてちょっと意識の高い話をして(内容はほぼ知ったか)、悦に浸っていた時のこと。

 

友人「なんかネットのニュースで見たんだけど、2020年には日本人女性の平均年齢が50歳を超えるらしいよ。」

僕「50歳ってことはないでしょ、最近は人生100年時代とか言われてるし。」

友人「それは『平均寿命』の話でしょ。俺が言っているのは『平均年齢』だよ。」

僕「あー、なるほど。『平均年齢』ってあんまり聞き慣れないから勘違いしてたわ。へー、50歳ね…。」

僕「……。∑(゚Д゚;) えっ」

友人「やばいよなー」

僕「……。(放心状態)」

 

 この事実を聞いて、高齢化にピンと来ていなかった僕の中で圧倒的な衝撃が走った。

これまでは、高齢化について「年金問題」だの「労働者問題」だの「経済規模の縮小」だのと小難しいことを言われて、僕の軽い脳みそでは理解が追い付いていなかったのだ。

しかし、僕も一応は人間である。生得的に備わっている直感を使ってこう思った。

「よくわかんないけど、平均が50歳の社会って終わってね?(小並感)」

 

 

冷静に考えてみる

 

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しばらく放心状態だった僕も、次第に平静を取り戻してきた。

で、さっきの日本女性の平均年齢50歳問題について、つたない知識で考えることに。

 

「日本人の平均寿命は大体80歳くらいだったはず。女性の平均寿命は男性よりも長いから、多分85歳くらいだろう。仮に85歳として、各世代の人口が全く同じだったとしたら、平均年齢は85÷2で大体42~43歳。ずっと続く少子化によって、世代間での人口分布の偏りを考えると…。まあ、50歳くらいにはなり得るか…。」

 

冷静に考えてみて思ったのは、少子化が全く起こっていなくても、平均年齢は42~43歳なのが意外だった。40代でも僕からするとかなり上な感覚なので。

そして、そこから考えると平均年齢が50歳っていうのもそこまでなおかしな数字じゃない。

 

衝撃を受けてさっきまで放心状態だったはずが、いつの間にか「けっこう普通のことだな」と感じるようになっていました。 

 

 

なぜ衝撃を受けたのか

 

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 では逆に、なぜ衝撃を受けたのか考えてみました。

こういうことって、結構ある気がするんですよ。直感では衝撃を受けたのに、冷静に考えてみると実は普通のことって。

この答えはたぶん簡単で、僕が「自分中心にしか世界を見ていなかった」ってことだと思います。

要するに、自分が普段関わっている人たちだけでしか世界を認識できていなかったんですね。普段かかわりを持つ人は当然、同世代が多いので、若い人を中心に世界が成り立っていると思ってしまう。

高齢化を「統計上の事実」として理解できてはいても、「自分の身の回りで実際に起こっていること」として実感できていなかった。

こういうことだと、思いました。

 

 

終わりに


今回の体験を通して、ありきたりの感想ですが「自分の見ている世界は狭いなぁ」と感じましたね。

そして、これからたくさんの経験をして、いろいろな人たちと関わって、自分の世界を広げなければいけないと思いました。

 

最後に僕の好きな言葉を一つ。

 

  • 私は、私が見える世界を皆に見せるための機械だ。

    ジガ・ヴェルトフ

 

 まあ、僕はこの言葉をアニメ版攻殻機動隊(攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX)で知ったので、ジガ・ヴェルトフについては、全く知らないんですけどね(笑)。

 

学校で「いじめ」がなくならない本当の原因

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こんにちは、一歩です。

今日はちょっと重い話題ですが、『学校で「いじめ」がなくならない本当の原因』についてです。

 

 結論

結論から言います。

「いじめ」がなくならない原因。

それは、「人が人を美化しすぎているから」です。

人を美化しすぎて、「人間の社会性の本質」を見ていないのです。

一体どういうことなのか。

 

  • 人と分かり合うとか無理ゲー
  • マウントを取りたい
  • 数の暴力

 

この3つで説明しましょう。

 

 人と分かり合うとか無理ゲー

 

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人にはもって生まれてきた「個性」があります。

「個性」は多様で人それぞれ違います。社会を見渡せば、見た目や宗教、考え方、趣味などは様々です。ある程度自分と似ていて親近感を覚える人もいるでしょうし、全く違う個性を持っていて理解できない人もいるでしょう。

 そして、「類は友を呼ぶ」の言葉通り、人は自分と共通点の多い人に親近感を覚え積極的に関わろうとします。社会的な「グループ」が自然にできるのですね。

逆に、共通点が少なく異質なものに対しては拒否感を表したり排他的になったりします。

この性質は、人がかなり幼いころから持ってるので、「人間の社会性の本質」ともいえるでしょう。

参考:性善説の崩壊ー生後15カ月の幼児も「倫理観<差別意識」だった【米・4つの心理実験】

 

 そもそも、他人を本当に尊重できる人ってどれだけいるのでしょうか?

「他人を尊重しよう」とかって言うのは簡単だけど、実際に心から尊重するのって相当な人格者でなければ難しいのではないでしょうか。

僕は、ほとんどの人は空気を読んで、「他人を尊重しているふり」をしているだけだと思っています。

「差別をあからさまにすると逆に周りから見下されるからやめておこう。」

こんな感じに。

 

マウントを取りたい

 

「隙あらばマウントを取る人」っていますよね。

こういう人は年齢に関係なく結構います。

なぜ人がマウントを取りたがるのかというと、「他人より上に立った気になって優越感を感じたい」「自分スゲーってやりたい」って感じだと思うんですよね。

つまり「マウントを取ることで快楽を得ている」 ということです。

「マウントを取る」という言葉は、「その人の性格の悪さ」などを表現することが多いです。

しかし、性格の悪い人でなくても、自分より下がいることで安心したり、自分より下を見て自己肯定感を保つことを完全に否定することはできないと思います。

つまりもっと極端に言うと、「人は、他人を見下し、他人よりも上の立場にいることを自覚することで快楽を得られる生き物である」ということです。

この事実を抜きにして、綺麗ごとで「いじめ」について語っている人ははっきり言って論外です。

 

数の暴力

 

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 人は周りの人がやっていること、言っていることを「正しい」と判断します。そして、それを自分でもやろうとします。

そこに、善悪の判断はありません。自分の意思や考えもありません。

……。

これは言い過ぎかもしれませんね。

しかし、実際にいじめの現場で、いったんいじめが始まると、周りは止めないどころか一緒になっていじめるっていうことがあるわけで。

また、学校とかに限らず、歴史的には魔女狩りとかジェノサイドとか差別とか、一旦「それをやっても許される空気」みたいなものが作られると、人ってけっこう残酷なことまでできてしまうと思います。

「いじめ」もその例外ではないわけで…。

 

こうして「いじめ」が起こる

 

これまでいじめが起こる3つの要素

 

  • 人と分かり合うとか無理げー
  • マウントを取りたい
  • 数の暴力

 

を説明してきました。

「3つの要素の一つでもあれば必ずいじめが起こる」なんてことはありませんが、3つそろうとかなり最悪だと思います。

みなさんはどうでしょうか?ここはあえて加害者の立場になって考えてみてください。

「自分とは全く異なる価値観や性質を持ってる人がいて、社会的な地位も低くてマウントが取りやすく(異質なマイノリティは地位が低いことが多い)、コミュニティ内の数の上でも自分の側が圧倒的マジョリティであることが分かっている、もしくはすでにいじめが起こっている。」

こんな状況だとしても、決して「いじめ」をしない、「いじめ」に加わらないと断言できるでしょうか?

そんな異質な人を一人の人間として他の人と同じように尊重できるでしょうか?

 

ではどう解決するのか

 

こうして冷静に「人間の社会性の本質」を分析してみると、「いじめ」は起こって当然とまではいかないまでも、割と「自然」なことのように思います。

もちろん、すべてのコミュニティで「いじめ」があるわけではありませんし、人格的にできているひともたくさんいます。でも、「人間の社会性の本質」からすると一定の割合で「いじめ」は起こってしまうんだろうなと思います。

でも「自然」で済ませてはいけませんよね。実際に被害者がいるわけですから。

では、どうすればいいのか?

僕は二つのことが重要だと思います。

 

  • 無理に同じ枠組みに入れない
  • 逃げ道ときちんと整備してあげる

 

 

 無理に同じ枠組みに入れない

 

これは「学校」そのものを否定する話にもなってしまうかもしれないのですが、ほとんど共通点のない人々を、無理やり同じ場所で集団生活させて、平和にやってくださいっていっても無理ゲーです。

特に公立の小中学校なんて、共通点なんて住んでいる場所くらいですからね。しかもその住んでいる場所も親が決めた場所ですし。

そんな多種多様な人々を無理やり学校という「檻」に閉じ込めて

「なんとか平和にやってください。道徳教育と社会性の教育をしっかりやればできるはずです。」

って言ったって、そりゃ無理でしょって話です。

まだ道徳観念もきちんと備わっていない子供なら、なおさらです。

 

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ただまあ、学校という教育システムを完全になくすのは実際難しいと思います。

しかし、「クラス」をなくすだけでも少しマシにはなるかなと。

その理由は「多様性の幅」がかなり広がるからです。要するに所属するコミュニティの選択肢が広いほうが、共通点が多く自分に合うコミュニティを見つけやすい。

実際の例だと、僕の小中高時代にも、「クラス内には友達がいないけど、他クラスにはいるから休み時間になると他クラスに遊びに行く」ってひとは結構いましたね。

あと別にクラス内に友達がいないわけじゃなくても、他クラスのひとと積極的に関わる例なんていくらでもありますしね。

ただ、今の学校では「クラス」単位での行動が多いので、その中でどうにかうまくやっていくしかないことが多い。それで、もしクラス内でいじめられでもしたら、即ドロップアウトみたいな。

そういうを見てると「クラスいらなくね?」ってなります。

「クラス」の役割として、ある程度の人数の生徒と担任の先生の関係を密にして、生徒を監視しやすくするっていうのがあると思いますが、今はオンライン環境があるので、先生が生徒と同じ場所にいる必要はないですし、同じ授業を受ける生徒同士でも同じ場所にいる必要はありません。

また「多様性の幅」を広げるっていう意味でいうと、インターネットの世界は有効に活用すべきだと思います。インターネットの世界では本当に自由に人と繋がれますからね。現在進行形でいじめられているっていう子はインターネットの世界に一時避難ですかね。

 

逃げ道をきちんと整備してあげる

 

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「いじめ」になんてあったら、学校に行きたくなくなります。

これまで、そういう人たちはどうなっていたかというと、不登校になったり、高校生以上であれば学校をやめていたわけです。

僕もいじめに対しては「さっさと逃げた方がいい」とは思っているのですが、実際には逃げていないない人がいる。

なんで逃げないのか考えると、「親に行きなさいと言われる」とか「学校に行かないと社会から取り残されてしまうと思っている」とかですかね。学校に行かなくなったら、家庭にも社会にも逃げ場がないわけです。

つまり、今の日本社会がデフォルト(学校に行くこと)以外を認めない社会の構造になっている。

そこで「しっかりとした逃げ場」を構築することが必要なのです。ここでいう「しっかりとした」というのは「社会的に認められている」という意味です。

そもそも今、「学校でしか学べないこと」ってほとんどないですしね。

オンラインで受講できる公共団体公認の講座とか、同じようにオンラインで受講している人とつながれる仕組みとかができればいいかと。

「あの人は学校に通っていなかったけれど、社会的に成功しているし、人間としても立派だよね。」

そういわれる人が出てくればいいと思います。

 

最後に

 

結局、人は人を美化しすぎ、高等なものと思いすぎだと思います。

多くの人は基本的にはそんなに考えて行動していないし(後付けの理由はたくさん思い浮かぶでしょうが)、空気とか快楽に流されてけっこう適当に生きていると思うんですよ。

その「人間の性質」そのものは変えられない。教育である程度は制限できるかもしれませんが、根本的には変わりません。

だったら、その「人間の性質」をまずはきちんと理解して、そこから「いじめ」が起きないようにどうすればよいのか対策し、システムを構築することが必要なのでしょう。

 

 

アリエリー教授の「行動経済学」入門【書評】

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こんにちは、一歩です。

今日読んだ本はこちら。

アリエリー教授の「行動経済学」入門 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アリエリー教授の「行動経済学」入門 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

「経済学」という学問では、人は「自己の利益が最大化するように経済活動を行う」という前提があるのですが、人は常に合理的というわけではありませんよね。

そんな「不合理性」を追求するのが、「行動経済学」です。

この本の著者 ダン・アリエリーは行動経済学の第一人者です。

 

人間は”不合理な”存在である

 

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私たちは「目的」、「目標」、「願望」といった壮大なものが人々を動かしていると思っています。

しかし、実際にはそうではありません。

食べ過ぎてしまうこともよくありますし、計画した通り運動できないこと、思ったほどには節約できないこともあるでしょう。

 

つまり私たちは皆、目標も目的も願望も持っているけど、現実にはそれらが日々の行動には全く結び付かないということが言える。

引用:アリエリー教授の「行動経済学」入門

 

そう。私たちは合理的な存在ではありません。

私たちは”不合理な”存在なのです。

 

 

あなたも人に流される 

 

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人は人に流されるというのは、ある程度は自覚していることだとは思いますが、我々は思っている以上に「人に流される」ようです。

 

例えば、こんな実験を紹介しましょう。

どうすればホテルのタオルを再利用する人が増えるか、という実験です。

ホテルには「環境保護のために、タオルを再利用してください。」という札がありました。

本当はお金の節約のためですが、そうは書かず、環境保護のためと書きます。宿泊客に信じてもらえるかどうかは別にして。

普通に言えば、これはいいアイデアですが、実際には何もしない客が多いのです。札を見ても何かと理由をつけて再利用しないのです。

 

では、タオルを再利用してもらうためには、どんな札を掲げればいいのでしょう。

一つには「このホテルの75%の人が」という要素を入れるとる方法です。

例えば、「このホテルの75%のお客様がタオルを再利用しています。」などです。

この方法でタオルの再利用率は20%増えたそうです。

 

つまり、ほかの人たちはどうしているのか、「社会の標準」、いわゆる「社会規範(social norms)」と呼ばれるものを効果的に使うことが大切なんだ。

引用:アリエリー教授の「行動経済学」入門

 

 さらに、「過去にこの部屋に泊まった客は」という要素を加えるとさらに良いです。

「”この部屋に泊まったお客様の”75%が再利用しました。」に変更するどうなったでしょう。

”このホテルのお客様の”だと再利用率は20%の上昇だったのが、”この部屋に泊まったお客様の”だと35%ほどになりました。

それは、人は自分と共通点のある集団に魅力を感じるためです。

 

つまり、人が周囲に同調しがちだという性質の利用したいなら、人が真似したいと思うような効果的な集団を考えることが重要だということだ。

引用:アリエリー教授の「行動経済学」入門

 

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また、ひと口に「同調」といっても、物知りな他人に従う「合理的な同調」と、無知な他人につい合わせてしまう「不合理な同調」の2種類があります。問題なのは、他人が物知りかどうか判断もつかないのに、とりあえず同調してしまうことです。

 

上司が「私はこうだと思う」と言ったとして、部下たちは「違うだろう」「冗談だろう」と思っている。内心では「上司の言うことは間違っている」と思っても、口では「イエス」と答えてしまうのが、不合理な同調だ。そして、部下たちが心から上司の意見に対して賛成しているのが合理的な同調だ。

引用:アリエリー教授の「行動経済学」入門

 

 

感情の働き方を考える

 

 

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人が合理性ではなく感情で動くのだとしたら、どのように人々の感情が動くのかを考えてみましょう。

アリエリー教授は言います。

 

私が言いたいのは、物事を統計的に、数学の問題として捉えた途端、私たちの感情のスイッチは切れてしまうということだ。物事に関心を向けるのは感情あってこそだが、数字の問題として捉えた途端、感情のスイッチが切れてしまう。そして、行動しなくなる。

引用:アリエリー教授の「行動経済学」入門

 

一つ実験を紹介しましょう。

被験者に8人の可愛い子供たちの写真を見せるとします。

最初のグループには、「8人全員が助けを必要としています」説明した後、「8人のうち誰かにお金を寄付したい場合は、少し置いて行ってください。あとで私が8人の中から無作為に一人を選んでお金を渡しておきます」と伝えます。

二つ目のグループには、「8人のうちこの子にお金を渡します」と伝えます。

どちらがより多く寄付したでしょうか。誰か一人にお金が渡る点は同じです。

結果は、特定の一人を指定したグループのほうがより多くのお金を置いていきました。誰を選んだかにかかわらず。

最初のグループの人は「どの子にお金が渡るのかわからないなら寄付しなくてもいい」と思ってしまったのです。一人だったら気にかけるのに、人数が8人に何た途端、その命に対する人々の関心は一気に低下してしまったのです。

 

 

感想

 

この本を読んでの率直な感想は「行動経済学って面白すぎw」です。

今まで読んできた経済学の本とは全く違う切り口なので新鮮で、かつ僕が大好きな心理学の要素も多い。最高です。

とりあえずは、ダン・アリエリーさんの著書を何冊か読み漁ってみようと思います。

 

 

人間はどこから来たのか、どこへ行くのか【書評】

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こんにちは、一歩です。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 

 ゴーギャンの絵画の作品名になっていて、「人類究極の問」ともいえるこの言葉は、我々の「人間そのもの」に対する知的好奇心を非常に喚起します。

特に僕は、人類史の本が大好きで、今まで50冊くらいは読んできました。

人類史から、文明の発祥や人間の行動パターンを学ぶと「人間とは何か」という問いに迫っているようで、とてもわくわくします。

 

 というわけで、今日はこんな本を読んでみました。

人間はどこから来たのか、どこへ行くのか (角川文庫)

人間はどこから来たのか、どこへ行くのか (角川文庫)

 

 この本は筆者が様々な分野の研究者を取材して、「人間とは何か」を探っていく形式で書かれています。

 

人間の脳は目先の利益に弱い?

 

「マシュマロテスト」は知っていますか?

幼稚園児にマシュマロを一つ渡し、実験者が部屋を数分空ける間に食べるのを我慢したらもう一つあげるといって、子供たちの行動を調べたものです。追跡調査の結果、マシュマロを我慢できた子は我慢できなかった子よりも社会的に成功しているとかいないとか。

要するに、目先の小さな利益をとるか、我慢してより大きな利益をとるかの判断です。

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この本の筆者が訪ねた研究者の一人、大阪大学社会経済研究所の田中沙織さんによると、人間の脳は目先の利益を主に見るところと、将来の利益というものを考慮して行動をとるところがそれぞれ違う場所に存在しているらしいです。

そして、基本的に私たちは目の前の報酬を重視する傾向にあると。

「私たちの脳のなかでは、目の前の報酬、目の前のおいしい物と将来の報酬、将来のおいしい物っていうのはじつは、将来のほうがその価値が下がってしまうんです。ですので、同じ大きさの報酬があるとすると、目の前の報酬のほうが一日後や一ヶ月後の報酬よりも価値は大きいというふうに考えているわけです。」

引用:人間はどこから来たのか、どこへ行くのか

 

 

合理性とはなにか

 

私たちは目の前の誘惑に弱いのだ。しかし、これは決して不合理な判断というわけではない。目先を重視する判断は、将来が保証されていない世界では、きわめて合理的なのだ。

引用:人間はどこから来たのか、どこへ行くのか

本の筆者のこの言葉を読んだとき、僕の中で衝撃が走りました。

これまでは、僕の中で「合理的な判断」というと目先の誘惑に負けず、最も利益の多い判断をするというイメージがあったからです。

しかし、言われてみればたしかにそうです。

将来が保証されていなければ、目の前の誘惑に耐えたところで報酬が得られないかもしれないのです。であれば、目の前のものはさっさと手に入れてしまったほうが得策でしょう。

 

 

現代社会に通じるもの

 

 ここまで読んだ方の中にはもしかして

「目先を重視する判断が合理的なんて、食料が限られていて天敵がうじゃうじゃいる大昔の時代の話でしょ。現代はちがうよ。」

と考えている人がいるかもしれません。

しかし、僕はそうは思いません。

というより、その考えこそが古い考えなのではないかと思っています。

 

将来が保証されているという意味では、人類が農耕を中心に生活していた時代はよかったのかもしれません。農耕は食料の将来的な確保という点で革命的だったでしょう。

また、20世紀までのいわゆる「労働社会」もそうでしょう。個人が一旦仕事に就くと、基本的には職業を変えることはなく、収入も年功序列で上がり続ける。

つまり、将来の予測がしやすい時代においては、「合理性」と「目先の重視」はかけ離れたものになるのです。

 

しかし、現在は時代の分岐点にあります。

 テクノロジーの進歩があまりにも速すぎて、未来の予測が非常にしにくいのです。そして、収穫加速の法則によって「テクノロジーが進歩する速度」自体も速くなっていきます。

テクノロジーの進歩は、当然ながら社会にとても大きな影響を与えます。

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特に、AI(人工知能)の分野では、2045年頃にはシンギュラリティ(技術的特異点)が起こり、AIが人間の知能を超えるといわれています。

 そうなった以降の予測は誰にもできないのです。

 

 

今こそ目先の利益を重要視すべき

 

未来の予測が非常に難しい現代でこそ、目先の利益を優先すべきではないでしょうか。無駄に先のことを考えて不安がっていても仕方ありません。

目の前の目標に向かって突っ走りましょう!!

 

 

期待はしないほうが楽だよね

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はじめまして。一歩と申します。

 

現在は理系大学生です。

趣味は読書とゲームと筋トレ。本の好きな分野は心理学とサイエンス系です。

プログラミングもちょっとやります。

このブログでは、ちょっとした豆知識の紹介や、自身の体験、自分なりの意見や考察なんかを書いていこうと思っています。

 

 

期待ついて

 

早速ですが、期待について。

皆さんは誰かから期待されたことはありますか?

例えば、両親とか学校の先生とか会社の上司とか。多くの人が何かしら期待された経験があると思います。

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世の中では努力して成果を出すとなぜか周囲から期待されちゃうんですよね。

それで、僕は期待されることが苦手です。

周囲からの期待がプレッシャーになって、自分の自由が制限されているような感覚になってしまうんです。なので、「周囲からの期待が嫌で努力しなくなってしまった」なんてこともあります。

 

 

 

期待って良いもの?

 

僕の場合は少し極端で、「期待に応えようとすることで頑張れる」なんて人もいるかと思います。

しかし、過剰に期待に応えようとしてしまうと、本人にとってマイナスなことが多いと思うんですよね。 

例えば、僕の中学生時代の知り合いに「両親の期待に応えようと必死に受験勉強したけれど、思うような結果が出せず、結果メンタルが病んでしまった」という人が結構いたりします。期待に応えようとするあまり自分で自分を苦しめてしまっていたんでしょうね。 

あと、期待というものは増幅するもので、周囲が実際に期待してる以上に、本人が期待されていると思い込んでしまうこともあります。

なので、努力とか行動は周囲からの期待ではなく、自分自身の中にある意思とモチベーションからするべき、というのが私の持論です。

 

 

 

自分自身への期待

 

それと、僕は周囲に対しても私自身に対してもあまり期待しません。

周囲に期待しないのも、自分自身に対して期待しないのも理由は同じで「そのほうが楽だから」です。

周囲に期待すると、その期待通りに動かない人をみてイライラしてしまったりするのではないでしょうか。自分自身についても同じで、期待通りにできないと自己嫌悪に陥ったりしてしまいます。それって、精神衛生上よくないですし、周りに対する期待が大きすぎると場合によっては迷惑になってしまいます。

 

 

 

自分自身に期待しないことのメリット

 

期待しないことで得られるメリットは多いです。

特に、自分自身に期待しないことのメリットって結構大きいと思っています。

その一つに、「わりと現実的な計画や目標が立てられるので、計画通りに物事が進められて、目標達成率も高くなる」というのがあります。

 

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例えば、僕は朝がめちゃくちゃ弱いので、重要な予定は朝(というか午前中)には絶対に入れません。高校時代なんかは、朝に早起きして勉強しようとしていた時期もありましたが、ほとんど起きられずに、そのまま学校に行っていました(笑)。 

そういう経験を経て、僕は自身の「朝」に対して全く期待しなくなったんですね。なので、現在は何か勉強や作業をしようと思って、時間を作ろうとした場合、夜に頑張るか、諦めるかどちらかですね(もちろん、昼間に時間をとれるのが一番いいのですが)。

 

 

 

どうして期待を裏切れないのか

 

では、周囲の期待を常に気にして、それに応える義務感を感じてしまう理由は何でしょう。それはおそらく「人間関係を良好に保とうとする」ことではないでしょうか。

つまり逆に言えば「人間関係を良好に保てるのであれば、期待は裏切っても構わない」のではないでしょうか?

 

 

 

周囲の期待を過剰に気にしないテクニック

 

そうはいっても、周囲の期待を気にしないで、かつ、人間関係を保つなんてことができるのでしょうか?

ここでは、人間関係を保ちつつ期待を過剰に気にしないですむテクニックを3つ紹介します。

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  1. 周囲の期待を気にした上で、たまにあえて裏切る。
  2. 普段から周囲の期待ではなく、自分の意思で行動し、独立した人であることを周囲に示す。
  3. やる気があることでは、しっかりと結果が出せることを証明する。

 

1.周囲の期待を気にした上で、あえて裏切る

いきなり「期待」という概念を捨て去るのはハードルが高いと思うので、まずは「周囲の期待を気にした上で、裏切る」訓練をしましょう。

「これがなかなかできないから、困っているのでは?」という人もいると思いますが、これは日常のほんの小さなこといいのです。

例えば、「LINEの返信のペースを少し変えてみる」、「今まで周囲に伝えていなかった趣味や価値観をカミングアウトする」などです。

このようなことをすることで、あなたのことをわかった気になって勝手に期待していた人に、嫌われない範囲で認められ、むしろ尊重されるようになります。

 

2. 普段から周囲の期待ではなく、自分の意思で行動し、独立した人であることを周囲に示す

これは具体的な行動の説明は不要だと思いますが、これを行い続けると逆に周囲から尊敬され始め、信頼されるなんてこともあります。

 

3.やる気があることでは、しっかりと結果が出せることを証明する

1と2だけだと、「わがままで協調性のない人」という受け取り方をされてしまうことがあります。そこで必要なのが「結果」です。

例えば、経済的な成功者で性格がいわゆる「わがままな人」でも、「人気があり、賞賛され、人格まで肯定されている」ということがあります。これはひとえに彼らが「結果」を出しているからです。

メディアによく出るようなわかりやすい成功者とまでいかなくても、周囲に「この人はモチベーションのあることはきちんと結果を出すな」という印象を与えられれば、勝手な期待はされず、周囲があなた自身のモチベーションを尊重してくれるようになります。

 

ここまで3つの方法を説明しました。必ず全てやらなければならないわけではないので、できるものから実践してみてください。

 

 

 

というわけで、今回は「期待について」でした。皆さんもあまり期待しすぎずに気軽に生活を送ってみてはいかかでしょうか?