人は死ぬ話
こんにちは、一歩です。
今日は、「人は死ぬ」話です。
当たり前で誰もが知っているけれど、平和に生活していると忘れがちなこの事実。
必要以上に「死」を意識して、怯える必要はないけれど、たまには「死」について思い出して、「命」について考えておきたい。
「死」について、僕はそう思っています。
- 人は死ぬぞ
- ルフィ(ワンピース 第104話より)
死について考える
人は死にます。
“いつか”必ず死にます。
そして、その“いつか”は本当にいつ来るのかわからない。
もうすぐかもしれないし、何十年も先かもしれない。
この「根本的な事実」は、非常に重要で、「人の命」について考えるときに意識しておくべきことです。
この事実を忘れてしまうと、 人の生死について考えるときに、ことの本質を見失ってしまうのではないかと思います。
続く凶悪事件と、そこからわかること
最近は、凶悪事件が連続して起こっていますよね。
「川崎市登戸通り魔事件」や最近だと、「京都アニメーション放火事件」などですね。
このような事件が連続して心が痛みますが、同時に一つの事実を思い出させてくれます。
それは、「人が悪意をもって行動しようとしたら、それは止められない」ということです。
もちろん、効果的な犯罪抑止の方法や防犯対策はあるとは思いますが、僕が言いたいのは、「行動の自由(自由権)が保障されている限り、人が何らかのモチベーションを持って行動することは、止められない。」ということです。
たとえ、それが悪意というモチベーションであろうと。
なので、事件直後は話題になっても、根本的な原因がわからないので(または、わかっていても対策することができないので)、具体的な抑止方法や犯罪対策まで話が進まないのです。
さらに、仮に原因が100%わかったとしても、すべてを抑止できるわけではありません。反社会的な人格を持った人や、社会の常識を逸脱する人は一定数で必ず現われます。
この話題を突き詰めていくと、社会システムの欠陥や限界という話になってくるのだと思います。
社会システムを構築する要素
社会システムを構築する要素を、「人の命」という観点から考えると、2つの要素に分かれると思います。
- 人が死なないように
- 人が人らしく生きられるように
この2つは同じことを言っているようで、実は相反する部分も多いのではないかと思っています。
例えば、先ほどの犯罪抑止に関連することでは、「監視社会」という言葉で、よく議論の的になります。
"1.人が死なないように" という観点から言うと、防犯カメラやスマートフォンで「人々を監視する」ことは効果的ですが、"2.人が人らしく生きられるように" に重点を置くと、プライバシーの侵害の問題として取り上げられることがあります。
特に、「自由」と「犯罪抑止」は相反する事象なのではないでしょうか。
社会におけるイレギュラーな犯罪者の存在
いつの時代にも、普通の人の感覚では考えられないような、凶悪な犯罪を犯す犯罪者というのは、一定数で出現します。
これらの犯罪者が出現する要因には、生まれ持った特性や教育環境、周囲との人間関係など様々な要素が重なって、複合的に作用していると考えられます。
そして、人というのは、人間関係や社会性において、さまざまなレイヤー(層)に分かれて成り立っており、そのすべてを管理、統制することは不可能です。
なので、極端に言うと「全ての要素の悪い部分だけが重なった人」というのが一定の確率で出現してしまうのです。
まとめ
もし、悪意を持って行動する人がいたとしても、現代の社会では、それを確実に抑止する方法はありません。
また、 通常の感覚では考えられないような凶悪な犯罪を犯す犯罪者というのも、一定数は必ず出現してしまいます。
これらの事実を踏まえたうえで、自分の命について僕が心に決めていることがあります。
それは、「自分の命が危険にされされたら、自らの命を守るために全力で抵抗する」ということです。
これは、なにも犯罪に巻き込まれた場合だけではなく、病気にかかった場合などもそうです。
これは、とても当たり前のことなのですが、結構忘れている人が多いとも思います。
普段、平和な生活を送っていて、「安全」について何も考えずに済むことが多くても、これだけは忘れないでいたいものです。