学校で「いじめ」がなくならない本当の原因
こんにちは、一歩です。
今日はちょっと重い話題ですが、『学校で「いじめ」がなくならない本当の原因』についてです。
結論
結論から言います。
「いじめ」がなくならない原因。
それは、「人が人を美化しすぎているから」です。
人を美化しすぎて、「人間の社会性の本質」を見ていないのです。
一体どういうことなのか。
- 人と分かり合うとか無理ゲー
- マウントを取りたい
- 数の暴力
この3つで説明しましょう。
人と分かり合うとか無理ゲー
人にはもって生まれてきた「個性」があります。
「個性」は多様で人それぞれ違います。社会を見渡せば、見た目や宗教、考え方、趣味などは様々です。ある程度自分と似ていて親近感を覚える人もいるでしょうし、全く違う個性を持っていて理解できない人もいるでしょう。
そして、「類は友を呼ぶ」の言葉通り、人は自分と共通点の多い人に親近感を覚え積極的に関わろうとします。社会的な「グループ」が自然にできるのですね。
逆に、共通点が少なく異質なものに対しては拒否感を表したり排他的になったりします。
この性質は、人がかなり幼いころから持ってるので、「人間の社会性の本質」ともいえるでしょう。
参考:性善説の崩壊ー生後15カ月の幼児も「倫理観<差別意識」だった【米・4つの心理実験】
そもそも、他人を本当に尊重できる人ってどれだけいるのでしょうか?
「他人を尊重しよう」とかって言うのは簡単だけど、実際に心から尊重するのって相当な人格者でなければ難しいのではないでしょうか。
僕は、ほとんどの人は空気を読んで、「他人を尊重しているふり」をしているだけだと思っています。
「差別をあからさまにすると逆に周りから見下されるからやめておこう。」
こんな感じに。
マウントを取りたい
「隙あらばマウントを取る人」っていますよね。
こういう人は年齢に関係なく結構います。
なぜ人がマウントを取りたがるのかというと、「他人より上に立った気になって優越感を感じたい」「自分スゲーってやりたい」って感じだと思うんですよね。
つまり「マウントを取ることで快楽を得ている」 ということです。
「マウントを取る」という言葉は、「その人の性格の悪さ」などを表現することが多いです。
しかし、性格の悪い人でなくても、自分より下がいることで安心したり、自分より下を見て自己肯定感を保つことを完全に否定することはできないと思います。
つまりもっと極端に言うと、「人は、他人を見下し、他人よりも上の立場にいることを自覚することで快楽を得られる生き物である」ということです。
この事実を抜きにして、綺麗ごとで「いじめ」について語っている人ははっきり言って論外です。
数の暴力
人は周りの人がやっていること、言っていることを「正しい」と判断します。そして、それを自分でもやろうとします。
そこに、善悪の判断はありません。自分の意思や考えもありません。
……。
これは言い過ぎかもしれませんね。
しかし、実際にいじめの現場で、いったんいじめが始まると、周りは止めないどころか一緒になっていじめるっていうことがあるわけで。
また、学校とかに限らず、歴史的には魔女狩りとかジェノサイドとか差別とか、一旦「それをやっても許される空気」みたいなものが作られると、人ってけっこう残酷なことまでできてしまうと思います。
「いじめ」もその例外ではないわけで…。
こうして「いじめ」が起こる
これまでいじめが起こる3つの要素
- 人と分かり合うとか無理げー
- マウントを取りたい
- 数の暴力
を説明してきました。
「3つの要素の一つでもあれば必ずいじめが起こる」なんてことはありませんが、3つそろうとかなり最悪だと思います。
みなさんはどうでしょうか?ここはあえて加害者の立場になって考えてみてください。
「自分とは全く異なる価値観や性質を持ってる人がいて、社会的な地位も低くてマウントが取りやすく(異質なマイノリティは地位が低いことが多い)、コミュニティ内の数の上でも自分の側が圧倒的マジョリティであることが分かっている、もしくはすでにいじめが起こっている。」
こんな状況だとしても、決して「いじめ」をしない、「いじめ」に加わらないと断言できるでしょうか?
そんな異質な人を一人の人間として他の人と同じように尊重できるでしょうか?
ではどう解決するのか
こうして冷静に「人間の社会性の本質」を分析してみると、「いじめ」は起こって当然とまではいかないまでも、割と「自然」なことのように思います。
もちろん、すべてのコミュニティで「いじめ」があるわけではありませんし、人格的にできているひともたくさんいます。でも、「人間の社会性の本質」からすると一定の割合で「いじめ」は起こってしまうんだろうなと思います。
でも「自然」で済ませてはいけませんよね。実際に被害者がいるわけですから。
では、どうすればいいのか?
僕は二つのことが重要だと思います。
- 無理に同じ枠組みに入れない
- 逃げ道ときちんと整備してあげる
無理に同じ枠組みに入れない
これは「学校」そのものを否定する話にもなってしまうかもしれないのですが、ほとんど共通点のない人々を、無理やり同じ場所で集団生活させて、平和にやってくださいっていっても無理ゲーです。
特に公立の小中学校なんて、共通点なんて住んでいる場所くらいですからね。しかもその住んでいる場所も親が決めた場所ですし。
そんな多種多様な人々を無理やり学校という「檻」に閉じ込めて
「なんとか平和にやってください。道徳教育と社会性の教育をしっかりやればできるはずです。」
って言ったって、そりゃ無理でしょって話です。
まだ道徳観念もきちんと備わっていない子供なら、なおさらです。
ただまあ、学校という教育システムを完全になくすのは実際難しいと思います。
しかし、「クラス」をなくすだけでも少しマシにはなるかなと。
その理由は「多様性の幅」がかなり広がるからです。要するに所属するコミュニティの選択肢が広いほうが、共通点が多く自分に合うコミュニティを見つけやすい。
実際の例だと、僕の小中高時代にも、「クラス内には友達がいないけど、他クラスにはいるから休み時間になると他クラスに遊びに行く」ってひとは結構いましたね。
あと別にクラス内に友達がいないわけじゃなくても、他クラスのひとと積極的に関わる例なんていくらでもありますしね。
ただ、今の学校では「クラス」単位での行動が多いので、その中でどうにかうまくやっていくしかないことが多い。それで、もしクラス内でいじめられでもしたら、即ドロップアウトみたいな。
そういうを見てると「クラスいらなくね?」ってなります。
「クラス」の役割として、ある程度の人数の生徒と担任の先生の関係を密にして、生徒を監視しやすくするっていうのがあると思いますが、今はオンライン環境があるので、先生が生徒と同じ場所にいる必要はないですし、同じ授業を受ける生徒同士でも同じ場所にいる必要はありません。
また「多様性の幅」を広げるっていう意味でいうと、インターネットの世界は有効に活用すべきだと思います。インターネットの世界では本当に自由に人と繋がれますからね。現在進行形でいじめられているっていう子はインターネットの世界に一時避難ですかね。
逃げ道をきちんと整備してあげる
「いじめ」になんてあったら、学校に行きたくなくなります。
これまで、そういう人たちはどうなっていたかというと、不登校になったり、高校生以上であれば学校をやめていたわけです。
僕もいじめに対しては「さっさと逃げた方がいい」とは思っているのですが、実際には逃げていないない人がいる。
なんで逃げないのか考えると、「親に行きなさいと言われる」とか「学校に行かないと社会から取り残されてしまうと思っている」とかですかね。学校に行かなくなったら、家庭にも社会にも逃げ場がないわけです。
つまり、今の日本社会がデフォルト(学校に行くこと)以外を認めない社会の構造になっている。
そこで「しっかりとした逃げ場」を構築することが必要なのです。ここでいう「しっかりとした」というのは「社会的に認められている」という意味です。
そもそも今、「学校でしか学べないこと」ってほとんどないですしね。
オンラインで受講できる公共団体公認の講座とか、同じようにオンラインで受講している人とつながれる仕組みとかができればいいかと。
「あの人は学校に通っていなかったけれど、社会的に成功しているし、人間としても立派だよね。」
そういわれる人が出てくればいいと思います。
最後に
結局、人は人を美化しすぎ、高等なものと思いすぎだと思います。
多くの人は基本的にはそんなに考えて行動していないし(後付けの理由はたくさん思い浮かぶでしょうが)、空気とか快楽に流されてけっこう適当に生きていると思うんですよ。
その「人間の性質」そのものは変えられない。教育である程度は制限できるかもしれませんが、根本的には変わりません。
だったら、その「人間の性質」をまずはきちんと理解して、そこから「いじめ」が起きないようにどうすればよいのか対策し、システムを構築することが必要なのでしょう。